野田 百合子 (1998年・中国)

 エクスペディションで、人生が変わったか。
 変わったようで変わっていない、変わっていないようで変わった、というのが正直な答えかも知れない。相変わらずのお気楽貧乏暮らし。これを機にイギリスに留学とか、中国にはまってしまって…、というようなダイナミックな変化は今のところなし。けれどもそんな私を支えている価値観、特に自分自身に対するとらえ方、ひいては人への接し方というものが、ずいぶんと変わってきたのではないかと思う。本当かしら、と思った私の周りの方々、これでも少しは成長してきたんですよ。

 中国エクスペディションは、はっきりいって、イージーエクスペディションだった。行った地域は山東省と、江蘇省。黄河と長江にはさまれた、一番海側の地域で、とてもひよくな農村や漁村だった。気候は東京とよく似ていて、せっかく日本の蒸し暑い夏からの脱出と思っていた私は、それ以上の日照りと蒸し暑さにやられ、がっくり。何といっても最高気温は43度を記録し、寒くて曇った国イギリスからのベンチャラーは心底ひーひーいっていたもの、私はよく食べ、よく眠り、よく出し、まったく健康そのもの!一回も倒れなかったことだけは自慢できる、という感じだった。

 活動内容は、コミュニティー・プロジェクトが小学校建設。といえば聞こえはいいけど、今ある小学校の児童数が増えすぎたので隣にもう一個建てようといって、現地の人ががんがん建てている隣で、6メートル×6メートルのちっぽけな守衛室を建設。それでも1メートルの穴掘って、石とセメントをつめて、地面から上はレンガを積み上げて…という体験は、なかなか新鮮だった。すべての建物は、地面から下の土台がしっかりしているからこそ、ちゃんと建ってるのね、と妙に感心したり。 プロジェクトサイトの桃墟(タオスー)は、よく晴れよく嵐のくる空の広い村だっ
た。水は豊富でおいしいし、野菜果物はいっぱいとれるし、人々はみんないい顔してるし、あれでトイレとゴミ処理だけしっかりしていれば、完璧なのになあ、などと思ってしまうほどだった。私たちは小学校の校庭を間借りし、テントとタープ(ビニールシートを屋根のように)をはり、即席キッチンとシャワー(といっても、ただ周りを囲ってバケツをおいた場所)をつくって生活していた。朝6時から働いて、お昼はぐっすり休んで、それからもう一がんばり、帰ってきたら食事当番の人がご飯を作って待っていてくれる。そんな感じで生活そのものは私の身体にすごく気持ちがよくて、東京にいるときより全然健康だった。

 最初のフェイズ、チャレンジといえば何といっても英語。英語で生活するという体験がまったく初めてだった私は、ペーパーテストの点は悪くなく、妙な自信があった分だけ、辛い辛い。私の実践英語力は、グループ内でいつもビリから一、二を争うものだった。まずもって、周りの状況についていけない。もちろんおしゃべりにもついていけない。そして、何事もうまく表現できないものだから(というだけで!)馬鹿だと思われる…、などなど。何度泣いたことか。トイレではいつも時計を眺めて、あと何日!とカウントダウンしたりして。私が何度も説明されてやっとわかったときにいう「あ〜!(なるほど)」というセリフが、みんなの間ではやったりしていた。英語に自信がない→何度も説明、辛抱強く待たせるなど、みんなの手を煩わせてしまうのがいや→積極的に自己主張をしない→もともと我の強い性格なのでストレスがたまる、というトラップにはまり、ずいぶんと苦しかった。今思えば、英語ができないことにそんなにこだわらなくてもよかったんだなあ。そのことを私はこの3ヶ月を通してやっと学ぶはめになるのだが。

 次の3週間は環境プロジェクトで、鶴の保護区に行った。鶴の保護区といっても、ちょうどその時期鶴は日本に行っているといわれ、出会ったのは檻の中の人間慣れした鶴たちだけ。そしてプロジェクトは、その保護区に観光客がきてお金がもっと入れば結局は鶴たちのためになるのだ、ということで、隣の敷地に小学校の校庭ほどの孔雀園をつくる、という作業だった。くる日もくる日も背丈ほどの草をぬく、フェンスを張り巡らす、孔雀のトイレをつくるなどなど。 桃墟より南で海岸沿いというもあり、暑さと湿気は倍増、水は塩辛く、現地の人とのやりとりはうまくいかない、など辛い条件がいくつも重なった。そこで私たちは本当に疲れきり、チームはそれぞればらばらになって、なんともしんどい3週間となった。自分に、そしてお互いにハッパをかけることさえできなくなったときに、そこにどうやって活路を見いだすか。実はそれこそ、本当のチャレンジなのかも知れなかった。一人一人が、一生懸命「何か」を探そうとしていた。恋愛を始めた人もいた。現地の子どもと仲良くなった人も、中国語を学び始めた人もいた。サーカスにも、ローラースケートにも行った。ショッピングも数少ない、楽しみのひとつ。それぞれの探し方に、本当に個性が出ていたと思う。 

 私にとっての活路は、うた、ダンス、写真、アート、そして自分に向き合う時間だった。もちろん語学力が追いついていかなかった、ということもある。けれどもそこに、日本での激しい私とは別の自分を見た気がした。そうか、私がいつも思っているような私であれなくても、別に大丈夫なんだ。英語ができなくても、激しく主張しなくても、そういう私を認めてくれる人もいるのだから、開き直って好きなようにやればいいんだ。そんなことを学んだ気がする。

 それで気分がだいぶ楽になり、アドベンチャープロジェクトのトレッキングに突入。中国では、アドベンチャーといってもそんなにすごい山ではなかった。自分の荷物はすべて背負って歩くものの、食糧などは数日ごとに基地に寄ってピックアップするので、大した量じゃない。毎日天気はいいわ、現地のガイドはつけられるわ、あんまり冒険したという感じにはならなかった。

 そこで、すっかりキャンプ生活にも慣れ、あせりがなくなったせいか英語での生活も苦ではなくなってきた私は、今度は人とのコミュニケーションを思う存分楽しんだ。それまでのフェイズで同じグループだった顔なじみの人も多く、スタッフにも恵まれて、自然の中でとても充実したときを過ごすことができた。ただ聞いているだけでも、ちゃんと会話に参加していると思えた。たとえば「Pardon?」とか「Are yousure?」とか、本当に簡単な英語でもタイミングさえばっちりあえば、十分ジョークになるんだってことを知った。遠い国の話に耳を傾けたり、流れ星を一緒に数えたり。今まで殻に閉じこもって、自分を抑えていたのが馬鹿みたいに思えた。人間関係がよかったら、日々のくだらないおしゃべりが楽しかったら、ほかのことはどうであれ、人生をエンジョイできるなあ、ということを実感。人間の力ってすごい。そしてよいコミュニケーションに大事なのは、自分や相手の至らない部分を探さないこと、とりあえず思いっきり飛び込んでみること、そして諦めないこと、かも知れないと感じた。これはどこにいても同じ。日本での生活で思い悩んだら、ここに戻ってこようと思う。

 ローリー・エクスペディションで得てきたかったもの。それは、自然との、人との、自分との出会い。ある種のたくましさ。 ローリー・エクスペディションで得てきたもの。それは、厳しい環境のしたでも、人間は食べて笑って、なんとかして生きていくということ。私の出会った一人一人も、世界中のどこかで今日も生きているのだろうという実感。主張しようが隠そうが、どんなにあがいても私はここに存在していて、いつのまにか私らしさというものが出てしまうということ。そして世の中、そんなその人らしさの集まりでできているのだから、こわがらずに私は私としてやっていけばいいんだなあ、というある種の開き直り。おかげで、いまは以前より肩ひじはらず人生を楽しめているような気がする。

 このエクスペディションに出かけるにあたり、多くの人の応援と励ましをいただきました。あんなに多くの人に愛されてるんだ、と感じたのは、生まれて初めての体験だったのではないかと思います。おかげさまでこんな感じで行ってまいりました。この場をかりてみなさんに、本当にありがとうございました。